人が先かシステムが先か?
何か問題があるたびに犯人捜しが始まり、それと同時にカウンターのように飛んでくる言葉として「人を責める前にシステムを疑え」というものがあります。
特定の個人に原因を押し付けて解決した気分になってはいけない、私もそう思っています。
しかし、システムに疑問を感じることができるかどうかも人次第です。
また、おかしさに気づいたとしてそれを修正するのも人です。
だからやはり人が先ではないでしょうか?
システムの問題は人が成長を止める言い訳にはなりません。
人の成長なくしてよりよい社会の実現はありえない、そう信じて弊社は人材育成サービスを提供しています。
「社会を変えたい」への違和感
私は教職としてキャリアをスタートさせました。
初めて赴任したのがいわゆる教育困難校と呼ばれるところで綺麗事ではどうにもならない様々な難しさと向き合う中で「学校(教育)を変えたい」という想いが大きくなり、退職し大学院に進学しました。
修士を取った私は学校に戻る前に国外の教育現場を知りたいと思い、海外ボランティアに参加しました。
二年間の開発途上国での生活は私が持っていた教育観を変えました。
同時に国際協力の仕事の面白さに目覚め、教職に復帰せず、JICAの市民教育に関わる仕事に就きました。
社会を変えたい、いつしか私はそんなことを考えていました。
多くの国際協力に携わったプレイヤーがそうなるように私の関心も徐々に国内の諸問題に向かっていきました。
そして再び大学院に進学し、社会人ドクターとしてとある地方自治体に席を置かせてもらい地方創生つながる業務に携わりました。
地域の人と触れ合い様々な事業に関わる中で「社会を変えたい」という考えに違和感を覚えるようになりました。
社会を変えたいと思って鼻息を荒くしていたのに社会なんてどこを探してもなかったんです。
何らかの問題を社会が抱えているとき、いつもそこには人がいました。
そこには「悪い人」ではなく「困っている人」がいたのです。
困っている人は誰かを恨んでいた
彼らと対峙していると次のような不満をよく漏らしていました。
「政治が悪い」「上司が悪い」「地域が悪い」「学校が悪い」
確かにそれは正しいのかもしれません。
おそらく正しいのでしょう。
しかし、それらを恨んだところで不満を抱える状況が改善される訳ではないのです。
彼らと向き合う中で気づいたことがありました。
それは自分たちが当事者であるにもかかわらず人任せなのです。
主体的に関与しようとせず、誰かが何かをするのをただ待っているのです。
それでも困っていないのであればいいと思います。
しかし、実際は困って不満を抱えているにも関わらずまるでゲームの世界の村人のように何者かによる救いを待っているのです。
プログラムされたゲームの世界の村人は自分の意志で動けません。
主人公が現れて自分たちの脅威を取り除いてくれるまで待つしかありません。
しかし、現実世界という舞台ではひとりひとりが主人公です。
脇役なんていません。
もちろん待っていれば自分たちの困難を取り除いてくれる存在が現れるかもしれません。
しかし、現実の世界ではそんな保証はどこにもありません。
ではどうすればいいのか?
それを考え、行動につなげるのが社会教育です。
社会教育に答えなどない
社会教育に携わるようになり、多くの企業や自治体などが提供している人材育成プログラムが設計段階で大きな間違いを犯していることに気づきました。
その多くが成人学習理論に基づいていないのです。
つまり学習者主導型になっていません。
事前になんらかの正解が設定されているようなプログラムでは学習者の求める学びを提供することができません。
社会教育の教材は参加者ひとりひとりが抱えている課題や悩みです。
それらひとつひとつに答えはありません。
過去の成功体験は課題を解決するための参考になることはありますが、すなわち正解とはなり得ません。
社名の由来でもありますが、何をすべきか考えて(Think)実際に行動して(Action)その結果を振り返る(Research)ことを繰り返すことで課題の解決を試みます。
弊社では原則としてパッケージ型のプログラムは販売しません。
依頼がある度に必ず個別に聞き取りをして依頼者だけでなく実際に受講する対象者にも満足いただけるようなプログラムを個別最適化されたプログラムを提案させていただきます。
持続可能な社会をともに実現しましょう。